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  • 2019.07.29 Monday
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柏崎館(毛馬内新城)

 毛馬内の館は最初、当麻館(現 毛馬内運動公園付近)にありました。
 慶長12年(1607)盛岡藩主南部利直が領内巡視の際に、柏崎に城を築くように
命じ、毛馬内氏は翌年、当麻館から柏崎館に引き移りました。
 明暦3年(1657)南部・秋田両藩の境論争が起き、柏崎館の守りを固めるために
南部四天王の一人と言われた桜庭氏が所預かりとなりました。桜庭氏の支配は、以後
210年間続くことになりますが、代々盛岡在住のまま多くは藩家老として藩政に参
画し、毛馬内には家士たちが留守を預かっていました。



☆館坂(大手口)

武家屋敷の残る古町を左に見ながら、館坂を上りつめると三の丸小路へ

☆桝型

三の丸小路から右に折れ「桝形」を曲がると二の丸へ

☆御蔵奉行所跡

御蔵(年貢米倉)と御奉行所が置かれていた。近くには御蔵稲荷が祀られている。

☆御蔵稲荷神社



御蔵稲荷神社からの眺望

☆蒼龍窟(内藤湖南先生旧宅)

往時の姿を伝えるのは門だけで、父十湾が刻した扁額が掲げられている。

☆家塾「育焉亭」跡

内藤十湾が毛馬内の青少年に漢籍を講じ多くの人材を育成した。

☆柏崎新城本丸跡(正面)


奥の深い堀切りと断崖に囲まれた本丸には御田屋(おたや)と呼ばれた桜庭氏
の陣屋が置かれていた。本丸前には今も土塁が残っている。また左手は空堀と
なっており別名耳捨沢は南部馬の移出が禁じられていたので死んだ馬の耳と引
き換えに埋葬許可を与えたことによるものという。

☆ホリ坂(搦手口)


 

鹿角の館/花輪館

 鹿角に残る約60カ所の館跡は、大半が中世のもので近世まで残る館跡は
花輪・柏崎(毛馬内)・大湯の三か所しかありません。
 寛文年代成立の史書『鹿角由来記』には鹿角四十二館と称し、鎌倉幕府に
よって関東御家人四氏(安保・成田・奈良・秋元)が鹿角を支配し、それぞ
れ領地されていたと記されています。
 *********************************
「花輪館」ー現 花輪小学校ー
 花輪の町通りの東側高台(比高40メートル)に花輪館跡があります。
 安保氏が最初に福士川右岸台地上の「古舘」に拠って花輪次郎を名乗った
とされ、後に花輪館に移ったといわれています。その後天正18年(1590)
に大光寺氏が花輪館に入り、続いて明暦3年(1657)に毛馬内氏、延宝2年
(1674)に中野氏が館主となっています。中野氏は後に南部氏の姓を許され
花輪南部氏とも呼ばれていました。
 現在、花輪館一帯は花輪小学校の校地となっています。

☆本丸跡 

本丸跡はグラウンド、二の丸跡には校舎が建ち並んでいる。

☆「三本木」


藩政時代、二の丸には家臣の屋敷がありその庭木が、小学校の校庭の中に
シンボルとして残されていたが、現在の校舎建築に伴い二代目の三本木が
グラウンド脇(本丸跡)に新しく植えられた。


グラウンドの西側周辺には土塁の一部が残っている。


八幡宮神社(八幡宮供養塔)
花輪館の守り神として慶長7年に神社が建立された。元は西南隅にあったが
今は校庭の整備などにより北側に移された祠のみが残っている。

☆物見跡


物見跡からの眺め、真下が横町、袋丁の武家屋敷

☆二の丸跡



二の丸には代官所(御官所)が置かれ、年貢米を収納する御蔵などが
あった。現在は花輪小学校の校舎が建っている。

花輪 まちめぐり/横町・袋丁

 花輪館(現 花輪小学校)と北館(現 桜山公園)の館下にある横町・袋丁は
組丁へかけ近世には家中屋敷の並ぶ内町を形成していました。
 横町は南北に長い鹿角街道沿いの本町通りから、直角に東横に入る町割りか
ら付いた名としています。中心部の一段高い場所に明治14年花輪小学校横町
校舎が新築、大正3年花輪館に移っています。その跡地に同5年鹿角郡公会堂
が建てられました。
 袋丁はむかし袋小路になっていて、他領から忍びこんだ曲者(くせもの)を
この一角に追い込んで捕えたと伝わっています。生垣や石垣に囲まれた通りが
往時の武家町のたたずまいを残しています。

☆横町

「横町」は町通りから直角に入った通り。袋丁と共に花輪館下に幕末まで
南部中野氏の家臣や御町医の武家屋敷が構えていた。


今が紅葉が盛りの楓の木は大正5年(1916)に郡公会堂を建築した
記念に植えられたと伝わる。


直進して館坂(搦手口)にさしかかり、花輪館に通じる。
左手の中ほどに明蓮寺(真言宗:明治12年廃寺)があった。

☆袋丁

「袋丁」も横町とともに武家屋敷街であった。天保年間の絵図には福士川から
水を引いた池が大小七つほどあるが、現在もホテルの庭園に一番大きい池が見
られる。

吉田屋敷跡(本陣跡)
 万延元年(1860)南部藩主利綱が鹿角巡視の際に吉田家が本陣として
 使われた。また、慶応4年(1868)戊辰戦役の際には鹿角口の総大将
   楢山佐渡の陣宿となった。
 今、残っている石垣は明治の末頃に現在の所有者が組み直したものと
 聞いている。


吉田屋敷跡の庭木の中にイチイの木の間から松の木が伸びている。(あるいは逆?)

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