昭和初期、下タ町の西側を流れる福士川の氾濫を防ぐために、砂盛りの土堤が築
かれました。そこから付いた名「砂森」(字名:砂森官有地・砂森川敷官有地)か
と思われます。
昭和8年(1933)に堤と水路が全通した記念に田代・駒形神社が建てられました。
現在は川原町の町内会館の機能も兼ねた建物として改築されています。近くには耕
地整理と大堰に関わるそれぞれの碑が並んで建立されています。
☆田代神社 ー
昭和8年創建ー
花輪の祭典では、8月16日、神明社の神輿渡御は田代神社から出発し
赤鳥居前で幸稲荷神社の神輿と合流して町内を一巡する。昔は神明社の神
輿は、上通りから赤鳥居まで行き、そこから引き返して袋丁の吉田家で休
憩の後、還御となっていたが、明治末頃に吉田家は下タ町に移り住んだと
いわれる。そんな経緯から現在の神輿渡御の形になったと思われる。
石の祠(後方は鹿角地域振興局の建物)
神社が昭和8年に創建される前は、この石の祠しかなかったという。
花輪 田面(田んぼのほとり)の守護神として祀られている。
☆耕地整理記念碑 昭和33年8月建立
戦後、花輪町土地改良区を結成し、年次計画(昭和27〜30年度)で
下花輪、鏡田、用ノ目、狐平などの耕地整理を行った。
[裏面に碑文あり] 吉田俊道(撰文) 大里武八郎(揮毫)
☆花輪大堰疎水之頌碑 昭和56年10月建立
「大堰」の完成までの歴史と、その恩恵について顕彰
「古くより水を治めるものは国を興すとある。・・」小田島由夫(撰文)
福士川(大堰は交差して福士川の上を流れている)
砂森付近で大堰と合流していた福士川は改修工事により、大堰
の下をくぐり、久保田(観音堂)の醤油工場付近で米代川に注ぐ。