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- 2019.07.29 Monday
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昭和6年(花輪線開通)前の花輪の家々は、ほとんどが大堰の東側にあって
西側は堰向どまりで、その裏は広大な田んぼでありました。
大堰は米代川東岸、堰根川原を起点に長さ約10キロに及ぶ疎水。その起こ
りは明らかでありませんが、初めは長年寺下あたりまでの小さな用水堰であっ
たといわれています。
宝永2年(1705)専正寺が焼失し、井上長左衛門ら真宗門徒らで八正寺林
(現 コモッセ周辺)を伐採して再建されており、その跡地を開田することにし
灌漑用水としての「大堰」が延長され現在の形になったと伝えられています。
昭和30年代頃の記憶では、子供たちの川浴びや川べりの洗い場の
情緒、水面に影を落とす青柳や松などの風情が懐かしい思い出とな
っています。