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  • 2019.07.29 Monday
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八幡平切留平別荘地/美術館

 標高約600mの八幡平山麓切留平に昭和57年(1982)から開始
された温泉付別荘地ですが、その一角に空き別荘を改築した私設美術館
「えのぐ箱美術館」が開館しました。
 近くで民宿を経営するオーナーの高橋親志さんが気に入った近現代を
代表する洋画・日本画を収集していたもので、「作品は見てもらうこと
で生きてくる。一流画家の作品を多くの人に鑑賞してもらえれば・・」
と話しています。
 八幡平の温泉や散策の行き帰りにお気軽にお立ち寄り下さい。

☆「えのぐ箱美術館」
 開館時間:毎週金・土・日曜日 午前11時〜午後5時
      ※期間4月下旬〜11月上旬
 入館料:300円(運営協力金)高校生以下は無料
 問い合わせ:☎080-5556-1213(高橋親志さん)



 国道341号線 切留平キャンプ場入口バス停から徒歩5分
 道順の要所に案内の看板が建っています。













☆展示作品☆
 大内田 茂士「秋の卓上」(昭和58年内閣総理大臣賞受賞者)
 野見山 暁治「丘の上の樹」(平成26年文化勲章受章者)
 宮崎 進(洋画)池田 満寿夫(版画・作家)平山 郁夫(日本画)他 常時60点展示 

八幡平 切留平/八幡平神社

 八幡平山麓のトロコ手前に赤い大鳥居が建てられており、そこから
600mほど進むと「八幡平神社」にたどり着きます。
 切留平は古くからマタギの拠点であり、また放牧地となっていまし
た。神社は集落の鎮守でしたが、集落の消滅に伴い社殿も廃れた状態
となっていたのを、八幡平の観光に携わる人たちが中心となって昭和
51年(1976)に再建し、神社の名称を切留平神社から八幡平神社
に改められました。


国道341線沿いのコンビニ脇に大鳥居が建っている。


八幡平神社(手前)


神社再建の際に「経塚」の存在が確認されている。


「八幡平神社」 祭神:八大龍神  祭日:6月19日


社殿裏には樹齢400年ともいわれるミズナラの大木が威容を放っている。

花輪 まちめぐり/八正寺稲荷神社

 文化の杜交流館「コモッセ」の西隣に八正寺稲荷神社が鎮座しています。
 由来は不詳ですが、史料によると天明4年(1784)花輪を知行していた
中野氏より社領5石が与えられています。また、寛政6年(1794)には正
一位の神階を得ています。
 現在は旭町町内の氏神として祀られており、町内会の集会所にもなって
います。


祭神:豊受姫命  祭日:宵宮 5月16日 本祭 5月17日
 

花輪 まちめぐり/下堰向三カ寺

  下堰向北側に「専正寺」「円徳寺」「長福寺」の三カ寺があり
他の侵入に対しての防備線となっています。
 建物は三カ寺とも延享2年(1745)中小路からの出火に遭い
その後の再建とされています。


☆専正寺(浄土真宗)

 天正17年(1583)京都本願寺 顕如の弟子、井上専正の開基。
 大堰を今日の規模まで拡大したのは、門徒の工事普請によるもの
といわれる。親鸞聖人御絵伝(市指定文化財)が伝えられている。
 山門は旧花輪通代官所の正門を移築したものである。

☆円徳寺(浄土宗)

 元和2年(1682)創立、尾去沢永久沢金山から花軒田高寺を
経て現在地に移った。木造十六羅漢像が伝えられている。

☆長福寺(曹洞宗)



 慶長元年(1682)城代 大光寺正親により開基。はじめ現在の
長年寺の場所にあったが、中野氏の入部により現在地に移る。
 本堂には木造三十三観音菩薩像(市指定文化財)が伝えられて
いる。享和3年(1803)建立といわれた山門は、近年建て替えら
れている。(一部当時の材料を利用)また、天井に描かれている
龍の絵や蟇股に蕪(カブ)をはめ込んだ彫刻も修復され、鮮やか
さを取り戻している。
 

花輪 まちめぐり/中小路・川原町・今泉

 花輪の町並で東西に並ぶまちとして横丁、中小路、川原町があります。
今泉は中小路・川原町と直交する形で南北の通りとなっています。
 福祉保健センターの向かいから今泉に抜ける弓なりの小路を「中小路」
といい、古い福士川は「川原町」のすぐ傍らを西に流れていたことから今
にこの地名を残しています。「今泉」はその名に反して湧き井戸がなく、
横丁や新町とともに福士川の水を堰で引いていたといいます。
 
 ☆「中小路」通り

 この付近に佐藤新之助家(佐新)があった。天保14年(1843)
佐新が京都男山八幡宮の祭典を見学し、幾つかの囃子を持ち帰った
との言い伝えがある。佐新宅は明治初期、江刺県学校「花輪寸陰館」
が設けられた。後に料亭「広川屋」となる。また、鹿角りんごの発祥
と女森の開墾は佐新とその長男 要之助の功績による。

 ☆「今泉」通り

 伝説では、三戸のマタギが福士本館に住み、柴内と鏡田を開いて
村づくりをして「鹿角三百丁」と言われたが、その子孫が今泉の式部
であると書き記している。『鹿角由来集』

 昭和30年(1955)に中小路・今泉は川原町に統合されています。
 

聖地十和田湖への入口/十和田山青龍大権現碑

 伝説の十和田湖は、山岳信仰の聖地でもあります。江戸時代、南部藩
の霊場として発展した「十和田神社」に参拝し、帰りに笹の葉を採って
田や畑に立てて五穀豊穣を祈る、お山懸けという風習がありました。
 出かける際は、十和田山青龍大権現碑の前でハバキハキをして修業の
成就を祈り、帰るとハバキヌギをして無事の帰宅を祝ったという。
 秋田県側から十和田湖に入る道は、大湯口と小坂口の二カ所に十和田
山青龍大権現の石碑があり、先祖の信仰心が宿っています。

☆大湯口の青龍大権現碑(四ノ岱グラウンド入口)


     文政五年(1822)五月十四日建立の石碑

☆小坂口の青龍大権現碑(鳥越)


      天保三年(1832)建立の石碑

花輪 まちめぐり/大堰

 昭和6年(花輪線開通)前の花輪の家々は、ほとんどが大堰の東側にあって
西側は堰向どまりで、その裏は広大な田んぼでありました。
 大堰は米代川東岸、堰根川原を起点に長さ約10キロに及ぶ疎水。その起こ
りは明らかでありませんが、初めは長年寺下あたりまでの小さな用水堰であっ
たといわれています。
 宝永2年(1705)専正寺が焼失し、井上長左衛門ら真宗門徒らで八正寺林
(現 コモッセ周辺)を伐採して再建されており、その跡地を開田することにし
灌漑用水としての「大堰」が延長され現在の形になったと伝えられています。




昭和30年代頃の記憶では、子供たちの川浴びや川べりの洗い場の
情緒、水面に影を落とす青柳や松などの風情が懐かしい思い出とな
っています。


相馬大作 潜伏地を往く

 文政4年(1821)4月、二戸郡福岡の下斗米秀之進(後の相馬大作)が秋田
領大館白沢の橋桁山から津軽藩主への襲撃を企てたが、密告により未遂に終わる
という事件が起こりました。
 もとは南部藩の臣下でありながら、江戸城では序列の逆転となった津軽藩に対
し警鐘を鳴らさねばと思い詰め・・・世にいう「相馬大作事件」です。
 失敗に終わった秀之進らは鹿角の地に潜伏した後、帰途についている。
 その後、藩を出奔し江戸で相馬大作を名乗り道場を開いたが、間もなく捕えら
れ、翌文政5年、門弟の関良助(花輪出身)と共に獄門の刑に処されたのでした。

☆襲撃決行前の足跡


文政3年3月、大湯下ノ湯平塚吉左衛門方に逗留し津軽公襲撃の
謀議を練っていた。この時花輪の山古人赤沢市兵衛が地形の案内
を手伝っている。(下ノ湯共同浴場近くに碑が建つ)


文政3年10月、大願成就の祈願のため小豆沢大日堂に参拝した
相馬大作の墨書が堂内西側の板壁に残されていたが、昭和24年
の火災により焼失している。(写真:現在の大日堂)

☆襲撃失敗後の足跡


文政4年4月に相馬大作が潜んだ土蔵(決行前後に小坂中小坂の
小笠原家の蔵に潜伏)この辺は旧小坂村の中心地であり、近くに
は地主の屋敷であった工藤家「中小路の館」や「御制札場跡」な
どがある。



小坂の小笠原家に潜んだ後、毛馬内古町 泉澤家の小屋に13日
間潜伏した。 風薫る南部烈士の宿とかや  木南(内藤湖南) 

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